初花
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少ししか匂はぬ高き梢の花を、 すなはちこの文を、 かなしきひとに參
らす。
旣にこころのみ老いたるものはかなしきかな。 なべてのことこの眼に
みえ、 なほなべてのことこの眼にみえざればなり。 いふなかれ、 世の家
々の屋根の下に、 そのかみのゆめみしひとなしと。 聽くなかれ、 その背
にあらく閉ざされし戶のおとを。 傷つきながら、 餓ゑながら、 耀くこと
なきをとこの子、 世にあまたゐるよ。 そのかたむける肩の上に、 ひとつ
ひとつ、 鴉なぞきてとまれ。 -そのつよき啼きどゑはひとすぢ晴れし
空の中に消え、 みしらぬひとのむねのそこにおつ。 立ち返り、 振り返り、 9
日の在りかのみあかるくて、 往くさきざきの雜草の穗波の、 ゆきずりの
かぜにいよいよあらだつ。 みちはいづこにありや。 この身地の上にある
かぎりみちのたゆることなし。 右左その肩に擔へるものを振りおとせ。
あたへしその手をとり戾せ。 そこに停ることなかれ。 みづからの影を蹈
みつつ歩みて飽くことなかれ。
なんにもゐさうもないぞ、 -いかにも、 眠りからさめたばかりの川
のいろだつた。 それでも、 あたりに春蟬が啼いてゐた。 なによりも空の
蒼が、 それにもましてその生きものの聲が、 じいんと、 水のひとつひと
つささやかな皺に沁み込んだ。 耳が眼になる、 -その聲にさからつ て、
砂地を選んで步いた。 踵をあげる每に砂がうしろに少しずれて、 足跡が
すぐついた。 ところどころに、 たんぽぽの莖と花とが風にみだれて動い
てゐた。 近寄ると、 これを蹈みつけた。 折れた莖を蹴散らした。 靴先が
犬の鼻に似て、 みどりに濡れてゐた。 いつか川水の音が耳から遠のいて
いつた。
松の木のあひだに松の葉がほそぼそと降つてゐた。 まだ早い春の日は
半空に低く、 小さく、 寒かつた。 -風の聲もないのに、 松の枯れ葉が、
たまたま往くひとの肩の上に、 蹈み行く靴の先に、 さらさらと、 降りか
かつてゐた。 松の木のあひだに、 新しい松脂の匂ひが一杯に漂つてゐた。
それがいつか松の木の、 幹を濡らし、 枝葉を濡らし、 滾れ松葉の道を濡
らしてゐた。 -けふ一日はせめて仕合せとしなければならぬ。 その道
で、 頰に振りかかる簡素な松の葉の、 しづかな雨がしきりに私を動かし
た。
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