山の宿海の宿

河井酔茗

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 海辺の旅宿は、潮の香がする。山中の旅宿は苔の香がする。  裏には、貝殻や、魚籠が散乱てゐる。海に近いからであらう。庭には、枯柴や、草籠が片よせてある。山に近いからであらう。  海辺の宿の女中は、必ず白粉を塗つてゐる。山の宿の女中は、必ずしも白粉をつけて居ない。前者には渡り者が多く、後者には土着の女が多い。  海の宿にはなまめかしさがある。山の宿には古めかしさがある。  山の宿の一泊料は、金五十銭以上を標準とし、海の宿の一泊料は、金一円以上を標準とする。  夜もすがら枕に響く鞺鞳たる浪の音は、淋しいやうでも、何となく心強さがある。  雨かとまがふばかり淙々として響く渓流の音を、灯火暗き半夜の床に聴く時は、寂しく且心細い。  海の宿は、暮れるに遅いから、眠りに就くことも遅い。山の宿は、暮れることも早く、眠ることも早い。  海の宿は、早く夜が明けても、宿の人達は未だ眠つてゐる。山の宿は、未だ暁の暗いうちから、宿の人達は既に起きてゐる。  宵に騒いでゐた客室々々も寝しづまつたのに、未だ寝ないで独り流し元をしてゐる宿の女中が、冴え渡るやうな美声で、流行唄を歌ふのを聞けば、彼等が流浪の身の上を想ふて更に海の宿の旅情を濃かならしめる。  時計を見ると、疾くに夜は明けて居る筈だのに、流石は山ふところ、未だ外は暗い。別に他の客ありとも思はれぬから、高らかな調子の話声は宿の人達であらう。何となく、なつかしい。  山の宿には温泉があり、海の宿には潮湯がある。  山の宿は苦しい旅をしてゐる人を泊るだけに、親切なところがあり、海の宿は、楽な旅をしてゐる人を泊るだけに、不親切なところが多い。  山上湖畔の宿には、沈黙、圧迫、神秘などが宿つてゐる。海岸の宿には、動揺、解放、自由などが漂ふて居る。一は静的、一は動的。  桔梗刈萱女郎花の咲き乱れた峠みちを、馬に跨つてゆらりゆらりと越えて行くのは、昔の旅の心持。  船を雇ふて海岸を漕ぎ廻る時は、心ひろびろとして、遠い洋上の白鳥住む孤島の生活を懐ふ。  船頭には老いたるが多く、馬士には齢若きが多し。  高山に宿る時は、如何に精神を鎮静ても、なほ自分の心臓の鼓動を明かに感ずる、空気が稀薄なからである。  海岸に宿る時に、絶えず渇を覚ゆるのは、空気に塩分が含まれて居るからである。  海岸の宿には極端の不自由なし。山の宿には時として極端なる不自由を感ず。

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