文学散歩開催報告 渋谷編

2024年1月13日に渋谷付近で文学散歩を開催しました。

運営からのメッセージ

参加者の皆さまのご参加により、足元の悪い中ですが、思い出深いものとなりました。また、新しい文学や場所に触れ合いながら、一緒に歩むことで、新たな発見や感動が生まれたことを願っております。今後もさまざまなイベントを企画してまいりますので、ぜひまたのご参加をお待ちしております。何かご質問やご意見がございましたら、お気軽にお知らせください。ご参加いただきました皆さま、本当にありがとうございました。今後西原先生による文学講座と続きます。また詳細はHPやメールにてご案内致します。またお会いできることを楽しみにしております。どうぞお体に気をつけて、素敵な日々をお過ごしください。ーーーー船岡
 

近代文学館では新収蔵資料展を見学。入館の際にもらえるチケットがわりの絵はがきを見せ合って盛り上がりました。展示では最近の芥川賞受賞作家たちの自筆原稿や、詩人らの交友を物語る書簡などの貴重な資料を目にすることができました。渋谷へ移動し、東京新詩社跡、国木田独歩居住地跡、二・二六事件慰霊碑などを巡りました。山路愛山居住地跡では、西原先生より文学は政治を書くものなのか人間の内的葛藤を書くものなのか議論があったことが紹介されました。こんにち、文学は「いかに生きるべきか」といった内面を基点に社会も描くものとされていると言えるでしょう。しかし、そうではない文学も、もしかしたらありえるのかもしれません。みなさんはどう考えますか?ーーーー平井

日本近代文学館横の旧前田家本邸 洋館にて


また、スポット詳細と開催報告になります。スポット解説は西原先生より、探訪記はスタッフのRicoさんが書いてくださいました。

日本民芸館

スポット解説(西原先生)探訪記(Ricoさん著)
「民芸」は新しく作られた言葉です。民芸運動は、柳宗悦(やなぎむねよし、1889~1961)らによって大正時代末期に始まりました。機械生産により失われつつあった、無名の職人による手仕事の生活用品を、新たに庶「民」の「芸」術として価値付けました。河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉、バーナード・リーチ、芹沢銈介、黒田辰秋らが有名です。庶民の芸術を主張したにもかかわらず、彼らはみな知識人で、作品は高額で取引されています。最初に赴いたのは、日本民芸館。「民芸」は民衆による芸術を意味し、例えば「ちゃぶ台」などがこれに当たります。皮肉なことに、我々に親しいはずの芸術であるのにもかかわらず、主張した人物が知識人である等の理由から、現在、作品は高額で取引されています。 私達が普段使いしている「もの」が将来的に貴重な価値を持つことは想像しにくいですよね。しかし、そのような目で物事を捉えてみると、新たな発見に出会えるかもしれない、とわくわくする想いが湧いてきました。

日本近代文学館

スポット解説(西原先生)探訪記(Ricoさん著)
近代文学の資料が散逸することを恐れ、高見順(1907~1965)らが設立した財団法人です。近現代詩の詩集や雑誌のうち、日本近代文学館しか保存していない文献も多く、私も大変お世話になっています。職員の方は親切で、大変有能です。複写料金は高めですが、提供しているサービスの質を考えれば、むしろ安いと感じます。 日本近代文学館は、近代文学の資料が散逸されることを恐れて、高見順らが設立した財団法人です。日本近代文学館にしか保存していない文献も多いといいます。嬉しいことに、入館する際、文豪や文学作品にちなんだポストカードがもらえます。 特に印象的だった展示は、芥川賞を受賞した作家らの生原稿です。それぞれの作家に文字の癖や味わいがあり、そういう「色」が合わさってひとつの作品として成立していることを感じさせられました。

東京新詩社、与謝野晶子歌碑、竹久夢二居住地跡

スポット解説(西原先生)クリックで展開します

東京新詩社跡

鳳(ほう)晶子が大阪・堺から上京した時、与謝野鉄幹には2番目の妻林滝野(たきの)がいました。晶子が積極的に不倫をし、鉄幹を横取りした格好です。雑誌『明星』の発行所は、番町から渋谷に移ってきました。

与謝野晶子歌碑

「母遠うて瞳したしき西の山相模か知らず雨雲かかる」。当時の渋谷はまだ田舎で、道玄坂の上からは神奈川県の大山などが見えたのでしょう。与謝野晶子は西の方を見て、はるかな故郷・堺を思っています。

二・二六事件慰霊碑

渋谷区役所一帯は、陸軍刑務所の敷地跡です。1936(昭和11)年に軍事反乱を起こした二・二六事件の青年将校らはこの地で処刑されました。その一人西田税(みつぎ)は、陸軍士官学校時代の詩人三好達治(1900~1964)の親友でした。1936年の「艸千里浜」は西田税を思う詩、1937年の「廃園」は、追悼の詩と解釈されています。「廃園」「あかつきの わがこころの園生(そのふ)に/おん墓あり/その日より ここにとこしへにおん墓あり/君知りたまふや/愚かなるわれがためには そは二つなき思出の奥津城(おくつき)なりと」。

 探訪記(Ricoさん著)
ビルや飲食店が多く立ち並ぶ、繁華街の渋谷にこれらの歌碑があります。当時の渋谷は田舎だったそうで、与謝野晶子が故郷を想った歌が刻まれています。特に驚いたのは、与謝野晶子が鉄幹と結ばれるために上京した、という情熱的なエピソードです。思わず見落としてしまうほど目立たない跡地ですが、文人たちが確かに存在していた息吹が感じられるため、感慨深いものがあります。

山路愛山居住地跡

スポット解説(西原先生)探訪記(Ricoさん著)
山路愛山(1865~1917)は、北村透谷(1868~1894)との人生相渉(そうしょう)論争で知られています。旧幕臣の山路愛山は、文学を政治評論執筆事業と見なしていました。一方で北村透谷は、文学を内面的精神的なものと考えていました。論争の文章、山路愛山「頼襄(らいのぼる)を論ず」、北村透谷「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」は、『日本近代文学評論選【明治・大正篇】』岩波文庫、に収められています。山路愛山は、北村透谷と「文学とは何か」と争った人物で、現在ではあまり知られていません。彼は文学を「日本はこうあるべき」や「〇〇に学ぶカリスマ術」等、政治評論執筆業とみなしていました。今では、文学は透谷が主張した内面的精神的なものと捉えられているように思いますが、もしも愛山の説が通説であったのなら、今の文学の捉え方は異なるでしょう。このように考えると、不思議な心地がしました。

国木田独歩居住地跡

スポット解説(西原先生)探訪記(Ricoさん著)
国木田独歩(1871~1908)は、佐々城信子との結婚生活が破綻し、寂しい渋谷村に転居します。そして、武蔵野の林を散策しながら、人生について思いをめぐらせました。名作『武蔵野』には、東京西部や多摩地区の昔の自然が美しく描かれています。武蔵境駅北方には「独歩の森」が、三鷹駅北口には文学碑があります。 国木田独歩は佐々城信子との結婚生活が破綻して、当時は寂しい渋谷村に転居しました。驚いたエピソードとして、その後、佐々城信子は再婚相手が待つ外国へ向かう船上で、船員と恋に落ちてそのまま日本へ戻って来たそうです。このお話は、有島武郎の『或る女』のモデルともなりました。自由で情熱的な女性である、という印象を受けると同時に、そんな彼女と結婚していた国木田独歩の『武蔵野』や、彼女がモデルとなった『或る女』を読んでみたいと思いました

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