白い鳥、血の海

石川啄木

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 變な夢を見た。――  大きい、大きい、眞黒な船に、美しい人と唯二人乘つて、大洋に出た。  その人は私を見ると始終俯いて許りゐて、一言も口を利かなかつたので、喜んでるのか、悲んでるのか、私には解らなかつた。夢の中では、長い間思ひ合つてゐた人に相違なかつたが、覺めてみると、誰だか解らない。誰やらに似た横顏はまだ頭腦の中に殘つてゐるやうだけれど、さて其誰やらが誰だか薩張當がつかない。  富士山が見えなくなつてから、隨分長いこと船は大洋の上を何處かに向つてゐた。それが何日だか何十日だか矢張解らない。或は何百日何千日の間だつたかも知れない。  其、誰とも知れぬ戀人は、毎日々々、朝から晩まで、燃ゆる樣な紅の衣を着て、船首に立つて船の行手を眺めてゐた。  それは其人が、己れの意志でやつた事か、私が命令してやらした事か明瞭しない。  或日のこと。  高い、高い、眞黒な檣の眞上に、金色の太陽が照つてゐて、海――蒼い、蒼い海は、見ゆる限り漣一つ起たず、油を流した樣に靜かであつた。  船の行手に、拳程の白い雲が湧いたと思ふと、見る間にそれが空一面に擴つて、金色の太陽を掩して了つた。――よく見ると、それは雲ぢやなかつた。  鳥である。白い、白い、幾億萬羽と數知れぬ鳥である。  海には漣一つ起たぬのに、空には、幾億萬羽の白い鳥が一樣に羽搏をするので、それが妙な凄じい響きになつて聞える。  戀人は平生の如く船首に立つて紅の衣を着てゐたが、私は船尾にゐて戀人の後姿を瞶めてゐた。  凄じい羽搏の響きが、急に高くなつたと思ふと、空一面の鳥が、段々舞下つて來た。  高い、高い、眞黒な檣の上部が、半分許りも群がる鳥に隱れて見えなくなつた。と、其鳥どもが、一羽、一羽、交る/″\に下りて來て、戀人の手の掌に接吻してゆく。肩の高さに伸ばした其手には、燦爛として輝くものが載つてゐた。よく見ると、それは私が贈つた黄金の指環である。  鳥は普通の白い鳥であるけれども、一度其指環に接吻して行つたのだけは、もう普通の鳥ではなくて、白い羽の生えた人の顏になつてゐた。  程なくして、空中の鳥が皆人の顏になつてしまつた。と、最後に、やや大きい鳥が舞下りて來て、戀人の手に近づいたと見ると、紅の衣を着た戀人が、一聲けたたましく叫んで後に倒れた。  黄金の指環を喞へた鳥は、大きい輪を描いて檣の周匝を飛んだ。怎したのか、此鳥だけは人の顏にならずに。  私は、帆綱に懸けておいた弓を取るより早く、白銀の鏑矢を兵と許りに射た。  矢は見ン事鳥を貫いた。  鳥の腹は颯と血に染まつた。 と、其鳥は石の落つる如く、私を目がけて落ちて來た。私はひらりと身を飜して、劍の束に手をかけると、鳥は船尾の直ぐ後の海中に落ちた。  白銀の矢に貫かれた白鳥の屍! 其周匝の水が血の色に染まつたと見ると、それが瞬くうちに大きい輪になつて、涯なき大洋が忽ちに一面の血紅の海!  唯一點の白は痛ましげなる鳥の屍である。と思つた、次の瞬間には、それは既に鳥の屍でなくて、燃ゆる樣な紅の衣を海一面に擴げた、戀人の顏であつた。  船が駛る、駛る。矢の如く駛る。海中の顏は瞬一瞬に後に遠ざかる。……  空には數知れぬ人の顏の、羽搏の響きと、帛裂く如く異樣な泣聲。……

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