夕とどろき

北原白秋

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春が逝く。……廃果てたメトロポウルホテルに、 やはらかな日の光る五時半、 萎れた千鳥草と、石鹸の泡のやうな 白い小さな花をつけた雑草のなかを、 やつと五歳のタアシヤーが押されてゆく、乳母車に載つて、 『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』 春が逝く。……暖かな外光のなかを、 軽い小児の夏帽が光つてゆく、河の見える方へ、 さうして、支那人の老婦が後から黙つて、 のんびりと、その車を押してゆくと、遠くで 意味のない叫びがきこえる、なつかしい五月のものの音が、 『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』 春が逝く。……幽かに汗ばんで来た棕梠の木と、 低く燻ぶつた樫の木の間から、 鉄柵を透いて道路が見え、白い蒸汽の檣が見える。 大河に恍惚とゆく帆船、短艇、煙、水面、 それらが揃つて日に蔭ると、何といふことなしに、 『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』 春が逝く。……夏が来てさへ、一人の旅客も もう訪ねて来る気色もない寂しさ。 みんな閉めきつた窻硝子の ところどころに孔があいて、屋根にはいつのまにか 草が生へた……車から抱いて下ろすと、 坊やのリンネルの薔薇いろがかがやく。 『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』 春が逝く。……外廊の古びた円い石柱に、 その蔭に坐つてゐる、支那の老婦が 黒い繻子の服の寂しさ……タアシヤーは地面の 雑草の花をつまんでは揉る、さも無心に。 さうして春が暮れてゆく、月島の方から、何といふことなしに 『銀だ、黄色だ、紅だ、緑だ、ようい………』 四十五年五月

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