靜夜
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稀れには、實際稀れにはこんな靜かな日もある――。
空にはちやうど頭上のあたりに、翳りを帶びた青い星が二つ三つ、雲の斷え間に覗いてゐる、もちろん月はない。沖の方は大きな闇。いつものところにいつもの𢌞轉燈臺が遙かに點滅してゐるのが、かういふ時にはかへつて邪魔つ氣なくらゐ、見渡すかぎり黒一色の深い闇。
少しは風も騷いでゐた晝間が、どうしてかういふ靜かな夜になつたのであらう。街燈の下の艸の葉一つ動かない不思議に靜かな夜である。こんな夜の渚にきて、平らにつづいたその遠淺の砂の上に、遠い道のりを擔いできた肩の荷物をそこに下ろして並木の蔭に憩ふ旅人のやうに、さも屈託らしく、婆娑と碎ける波。その波の音は、海邊に暮してふだん波の音をきき慣れた私の耳にも珍らしい。
私は橋の上に佇んで暫く耳を傾けてゐた。
波はいつまでも同じものうい聲で碎けた。碎けた後にそれは暫く低い聲で囁いてゐる。その囁きは渚にそつて遠くの方へひろがつてゆく。その後の長い沈默の休止の時間。
ふと氣がつくと我れながら少し不審なくらゐ、私はそこに暫くの間たちどまつてゐた。
別段何を考へてゐた譯でもない。こんな闇の中でひとり心を動かして感興を覺える、人生のさういふ季節を私は既に遠い日にうしなつてゐる。私の心は既に年ごとにさうしてまた日ごとに退屈なものに變つてきてゐる、その變化に氣づいてひそかに愕いたのももはや近頃のことではない。私はその時分から、單調な道のりを重い荷物に耐へる駱駝のやうに、さうして終日自らの影を地上に見つめる駱駝のやうに自分を考へて暮してきた。
――意を安んずるがいい、お前もさうではなかつた、この世には實は怠け者といふものは一人もゐないのだ。
――なるほど神さまのみ心にかなひさうな人も見當らないからね、誰が怠け者だらう。
私はその時何もはつきりとさういふことを考へてゐた譯ではなかつたが、強ひていへば或はさういふ言葉となつたかもしれない風味の、妙な感情のうちに佇んでゐたのである。
波は靜かに高まり、靜かに飜り、靜かに碎けて、同じ一つの言葉を、同じ聲で、闇にむかつてくりかへし呼びかけてゐる。――海、鹹からい水にすぎない海、その水の果しない起き伏し、その非情の聲は、しかしなほその上にも暫く私をひきとめた。
かかる夜も
時をしふれば
あまき酒にかかもされむ
…………
遠き日も
にがかりけるよ
…………
さうして私は、なるほどさう思へば我れながら駱駝のやうな足どりで、埃つぽい路の上に徐ろに歩みを移した。そのすぐ先の丘の上の私の住居には、私を待つてゐる家族がゐる譯でもない、急ぐ理由もないのである。
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