兩替橋

上田敏

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 ポン・トオ・シァンジュ、花市の晩。風のまにまに、ふはふはと、夏水仙のにほひ、土の匂、あすはマリヤのお祭の宵宮にあたる賑やかさ。西の雲間に、河岸並に、金の入日がぱつとして、群集の上に、淡紅の光の波のてりかへし。今シァアトレエの廣場には、人の出さかり、馬車が跳れば電車が滑る。辻の庭から打水の繁吹の霧がたちのぼり、風情くははるサン・ジァック、塔の姿が見榮する……風のまにまに、ふはふはと、夏水仙の匂、土のにほひ。……その風薫る橋の上、ゆきつ、もどりつ、人波のなかに交つて見てゐると、撫子の花、薔薇の花、欄干に溢れ、人道のそとまで、瀧と溢れ出る。花はゆかしや、行く人の裾に卷きつく、足へも絡む、道ゆく車の輪に絡む。  角のパレエの大時鐘、七時を打つた――都の上に、金無垢の湖水と見える西の空、雲重つてどことなく、雷のけしきの東の空。風の飜が蒸暑く、呼吸の出入も苦しいと……ひとしほマノンの戀しさに、ほつと溜息二度ついた……風の飜が蒸暑く、踏まれた花の香が高い……見渡せば、入日華やぐポン・ヌウフ、橋の眼鏡の下を行く濃い紫の水の色、みるに心が結ぼれて――えい、かうまでも思ふのに、さても情ないマノンよと、恨む途端に、ごろ、ごろ、ごろ、遠くで雷が鳴りだして、風の飜が蒸暑い。  植木鉢、草花、花束、植木棚、その間を靜かに流れるは、艶消の金の光を映しつつ、入日の運を悲んで、西へ伴ふセエヌ川、紫色の波長く恨をひいてこの流、手摺から散る花びらをいづこの岸へ寄せるやら。夕日は低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸を左右のセエヌ川、川一杯を抱きしめて、咽んで搖る漣に熱い動悸を見せてゐる。……われもあまりの悲しさに河岸の手摺に身をもたせたが……花のかをりの夜の風、かへつてふさぎの種となり、つれないマノンを思ひだす。  あれ、ルウヴルの屋根の上、望の色の天のおく、ちろりちろりとひとつ星。おお、それ、マノンの歌にも聞いた。「あれこそなさけのひとつ星、空には、めうとも、こひびとも、心變りのないものか。」涙ながらに、金星を仰いで見れば、寶石の光のやうにきらめくが、憎らしいぞや、雲めが隱す、折角樂しい昨日は夢、せつない今日が現かと、つい煩惱も生じるが、世の戀人の身の上を何で雲めが思ふであらう。……もう、もう、そんな愚痴はやめ……星も出よ、あらしも吹けよ、唯ひとすぢに、あの人を思ふわが身には、どうでもよい。ある日マノンの歌ふには「移ろひやすい人心」。そこでこちらも早速に「君が色香もかんばせも」と鸚鵡返をしておいた。したが、あらしに打たれる花は、さぞ色褪せることだらう。……ぴかりと稻妻はたたがみ、はつとばかりに氣がついた。  雨こそは、さても眞面目に、しつとりと人の氣分を落ちつかせ、石の心も浮きあげて冷たい光を投げかける。雨よ、この燃える思を冷やかに、亂れた胸を平らかに、このさし伸べた熱の手を凉しいやうにひやせかし。おゝ、ぽつりぽつりやつて來た。……あゝ、さつとひと雨……おや、もう月の出か。さては村雨の通つたのか。何となく明るいぞ。風のまにまにふはふはと、撫子が匂ふ、夏水仙が匂ふ、薔薇が匂ふ、土が匂ふ。ルウヴル宮の屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買ひませう。おやおや氣でもちがつたか。そして心で笑ひつつ、薔薇の花束ひと抱、さきの口説もどこへやら、マノンのとこへ飛んで行く。

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