柑子
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蕭やかにこの日も暮れぬ、北国の古き旅籠屋。
物焙ぶる炉のほとり頸垂れ愁ひしづめば
漂浪の暗き山川そこはかと。――さあれ、密かに
物ゆかし、わかき匂のいづこにか濡れてすずろぐ。
女あるじは柴折り燻べ、自在鍵低くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅語る商人ふたり。
傍より、笑みて静かに籠なる木の実撰りつつ、
家の子は卓にならべぬ。そのなかに柑子の匂。
ああ、柑子、黄金の熱味嗅ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋の空ゆく黄雲、畑のいろ、見る眼のどかに
夕凪の沖に帆あぐる蜜柑ぶね、暮れて入る汽笛。
温かき南の島の幼子が夢のかずかず。
また思ふ、柑子の店の愛想よき肥満たる主婦、
あるはまた顔もかなしき亭主の流す新内、
暮れゆけば紅き夜の灯に蒸し薫ゆる物の香のなか、
夕餉時、街に入り来る旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木かげに夢心地、在りし静けさ
忍ばれぬ。目籠擁へ、黄金摘み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴の清しき、鳴りひびく沈黙の声音。
柴はまた音して爆ぜぬ、燃えあがる炎のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫のなかに、
箸とりて笑らぐ赤ら頬、夕餉盛る主婦、家の子、
皆、古き喜劇のなかの姿なり。涙ながるる。
三十九年五月
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