旅情

北原白秋

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――さすらへるミラノひとのうた。 零落の宿泊はやすし。 海ちかき下層の小部屋は、 ものとなき鹹の汚ごれに、 煤けつつ匂ふ壁紙。 広重の名をも思出づ。 ほどちかき庖厨のほてり、 絵草子の匂にまじり 物あぶる騒ぎこもごも、 焼酎のするどき吐息 針のごと肌刺す夕。 ながむれば葉柳つづき、 色硝子濡るる巷を、 横浜の子が智慧のはやさよ、 支那料理、よひの灯影に みだらうたあはれに歌ふ。 ややありて月はのぼりぬ。 清らなる出窓のしたを からころと軋む櫓の音。 鉄格子ひしとすがりて 黄金髪わかきをおもふ。 数おほき罪に古りぬる 初恋のうらはかなさは かかる夜の黒き波間を 舟かせぎ、わたりさすらふ わかうどが歌にこそきけ。 色ふかき、ミラノのそらは 日本のそれと似たれど、 ここにして摘むによしなき 素馨、海のあなたに 接吻のかなしきもあり。 国を去り、昨にわかれて 逃れ来し身にはあれども、 なほ遠く君をしぬべば、 ほうほう……と笛はうるみて、 いづらへか、黒船きゆる。 廊下ゆく重き足音。 みかへれば暗きひと間に 残る火は血のごと赤く、 腐れたる林檎のにほひ、 そことなく涙をさそふ。 三十九年九月

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