棗の樹

北原白秋

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映画の中に一本の棗の樹あり。 以太利の街なれば日の光黄色なりけり。 棗には実ありき、その実いと赤かるべきも、 ただ黄にかがやきて影を落せり。 急がしきシネマトグラフの中なれば、誰とわかねど突拍子もなく現はれて気狂のごと 自転車乗の若紳士走り廻れり、 何時までも何時までも銀の輪の走り廻れり。 うしろに宝石商の飾窻あり、舗石あり、樹の反射あり。 黒く優しき貴夫人も過ぎゆきにけり。 棗はかがやく。その男走り廻れば 愚かや乗れるその車輪慄へつつ縮まりてゆく。 悲しくわかき男かな、ワイシヤツに鼻眼鏡して、 突き当り、跳ねころべども起き直り、走り廻れり。 尻振りざまのをかしさよ、そのペタル縮まりて玩弄品のごとく 今は早や踏むにも堪へね、ひたぶるに走り廻れり。 棗はかがやく。サンドウヰツチ売の爺は驚く。 悪戯小僧は栗鼠のごと木にかけのぼる。 銀の輪は走り廻れり――ありとある、頓狂に戯けたれども、 ただにわが憂愁の外にのみ急がしく瞬きにけり。 映画の中に一本の棗の樹あり、 以太利の街なればその実いと黄色なりけり、 棗は光りき、されども影の影なればある甲斐もなく 見る人の心に耀やきて、また倏忽に消え失せにけり。 大正元年九月

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