散文詩四篇

三好達治

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沈默  おだまり!  とフランシス・ジャムは、ある夜ふけ、唇に指をおいて、自分に命じた。ああこの日頃、またしても人々は、私の詩を否定する。彼らはそれを切りさいなむ。それらの勝手な組合せで、彼らは私を否定する。ああその批評で、彼らはつひに何人の耳を掩はうとするのか。  しかし、おだまり!  とフランシス・ジャムは自分に命じた。  けれども私には、私の耳には、今宵もあそこに、ミューズの竪琴の聲が聞える  ……。  そこで私もフランシス・ジャムに學んで、ある夜ふけ、ひそかにかう自分に命じた。  おだまり!  この日頃、またしても人々は、私の詩を否定する。彼らはそれを切りさいなむ。それらの勝手な組合せで、彼らは私を否定する。ああその批評で……、とそこまできて、私はそこで、私をさへぎる一つの壁にむきあつた。  しかしおだまり!  と私はやはり、それでもフランシス・ジャムに學んで、自分に命じた。  けれどもおだまり! 私には、私の耳には、今宵もあの、ミューズの竪琴の聲は、聞えないから……。  …………………  おだまり! おだまり! ながく辛抱して……。 出發  まんとの袖をひるがへし、夕陽の赤い驛前をいそぐ時、海のやうに襲つてくる一つの感情は甘くして、またその潮水のやうに苦がい。人はみな己れの影をおふてゆく、このひからびた砂礫の上に、彼方に遠く疲れた雄鷄の鳴く日暮れ時、私の見るのは一つの印象、谿間をへだてた谺のやうに、うすれゆく印象の呼びかへしだ。  出發、――永い間私はこの出發を用意してゐた。私は今日この住みふるした私の町を出てゆきます。今その切迫した時間に驅けつける旅人、ぼろタクシーの間を縫つて、彼方に汽笛の叫びをきく時。  空しくすぎた歳月を越え、やくざな一切の記憶を越えて、ああまたあのなつかしい一人の人格は、まぼろしのやうに私の前をゆきすぎる。けれどもあなたはどこに往つてしまはれたか。あなたの住ひをどこにたづねていいのでせう。忘却は、虚無は、かくして無限に平板な明け暮れは、空しく四方から海のやうに襲つてくる時に。  出發、出發、私の列車はもうあすこのプラットフォームに入りました。かしこにけたたましくベルは鳴り、かしこに機關の重壓は軋り出ようとする。  出發。  この人ごみの間にあつて、私はひとり希望もなく、膝においた鞄の上にうなだれて、彼方にさみしいシグナルのかげを旅立つでせう。これらの群衆と一つ列車にのりくみながら、けれども私は彼らと異る方角へ、一人の孤獨な旅人として。  出發……、出發……。  いまはとらへどころもない、あなたのなつかしい人格が、――かの一つ星が、高く萬物の上に輝きでる時に、遠く遠く、あなたのかへらぬ弟子として。 係蹄  あの砂山のかげから、青い海と、鴎の群れを見た時に、人々から遠くはなれて、私がはじめてそこまで出かけていつた時に。  その時私の心は、最初の病氣に苦しんでゐた。海は青く、太陽は高かつた。遠く故郷を出て、私がそこではじめて見たものは何であつたか。ああその風景は、今日もなほ私の眺望にかかつてゐる。  進歩とは何であらう。人生は水車のやうなものだ。永い輪𢌞は、一つのところで𢌞つてゐる。  噫あの砂山のかげできいたさざめき、笑ひごゑ、沈默、またそのやさしい歌ごゑに影をかざして遠く砂丘を越えていつたパラソール。  かうして人生は暮れてゆく。今日またおとろへた私の視力に、くもつた眼鏡の遠景に浮んで見える、その風景は夏の日のまつ晝ま、ツルゲニェーフや獨歩を讀んだ日のあの砂山、青い海と、鴎の群れ、ふつくらとしたちぎれ雲のかず、――さうして思出の遠い祕密の方角へ消えていつた歌ごゑ。  すべてはあの日に何を意味してゐたのだらう。その意味は解きがたく、今日もまた私の心に浮んでくる。まことに人生には進歩がない。それは水車のやうなものだ。ものうい輪𢌞は、一つところで𢌞つてゐる、𢌞つてゐる。  私は今日、水車小舍のそばを通つた、ふとその路傍に佇んで耳を傾けた。さうして私は、なほこの係蹄の中で、もどかしく一つの未知の眞理を夢みながら歸つてきた。 狼  ああこはかつた!  少女は私の膝にとびこんできて、兩手でおほつた顏を私の膝にうづめながら、  ああこはかつた!  とくりかへした。つめたいからだをこはばらせて、みなし子のやうな、痩せた肩で息をしてゐる。私は父親のやうな氣持になつて、兩手を彼女の背なかにおいた。  ああこはかつたの、ほんとにこはかつたわ、いきなり狼に出會つたのよ、山で。  山には狼がゐたのかい。  金いろの眼の、まつ青な毛並の、脚なんか宙にういて、火のやうな口からまつ赤な舌が燃えたつて、尻尾は…… 尻尾は風のやうだつたわ、ああこはかつた、いきなり叢からとび出してきたの、あの狼。  ああ、ああ。  と私はすなほな聽き手になつてうなづいた。  私はひとりで山へいつたの、お友達なんかないものね、ひとりでどんどん山の奧へ入つていつたわ。散歩にいつたの、歌をうたつて。  ひとりで、歌をうたつて、そんな山奧へ……  ええ、いつでもさうよ、そしたら、そしたらね、金いろの眼の、まつ青な毛並の……  狼が……  いきなり叢から、私、氣がつくと、もう眼の前に、鼻の先に、きてゐたわ。  焔の中に、燃えたつて、ね、青い毛なみに火がついて、樂浪の、壁畫の中からぬけてきて、ね、あの繪のやうに、脚はもう、宙に浮いて、肩から大きな翼がはえて……、まつ赤な舌がまきあがつて……  私はさうひとりで先をつづけながら、少女の顏をのぞきこんだ。少女はもう、私の膝から顏をあげて、いつの間にか、私の肩にもたれてゐた。  ああこはかつた。ほんとにこはかつたの、私、後をも見ずにとんで歸つたわ、いちもくさん、いちもくさん、膝がもつれて、息がきれても、ほんとに後をも見ずにとんで來たわ、ああこはかつた、こはかつたわ……  こはかつたね、あの狼……  つて、おぢさん、あの狼、おぢさんも、ごぞんじ、山で、おあひになつて……  いいや、おぢさんは、山ではあはない。  私はなぜかうなだれてさう答へた。少女は全身で、その時、私の肩にもたれかかつてきた、いつも私の娘がするやうに。――どうやらこれは夢のやうだと、心の隅で、私はいくらか悟りはじめた。けれども私はかう答へた。  おぢさんは、おぢさんはね、山でぢや、ないんだ、でもおぢさんは、その狼なら、見たことがある、東京の、街の、まんなかで、銀座通りの、電車路で。  夢はそこでさめた。少女の言葉は、まだ私の耳にのこつてゐた。  …………

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