虻
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一疋の虻が靜かに立たうとして、うすい綟れた羽根を震はせた。
「立てるか。」
誰かが乾いた土の上から聲をかけた。かれはすぐ返事をしようと思つたが、羽根の方へ入れた力のために、聲が出なかつた。
ひつそりした枯草の裾には、いつさいのものが聲をひそめて伸びあがらうと、温かい日光のなかに靜まりきつてゐた。
虻はできるだけのちからで、羽根の尖端を震はせながら、すこしばかり冷たい感じのする微風に乘り移らうと焦つてゐた。朝顏の蕾のやうに絞られた羽根が、まだひ弱さうであつたが、すこしづつほつれて行つた。
かれは殆ど夢中になつて、まぶしい光のなかに戰いでゐる何かの嫩葉立ちの青い色をながめてゐた。かれは實際いままで曾て斯樣な青いいろを見たことがなかつた。生れてはじめて眺める色だつたのであるが、ふしぎに、かれは目のなかで、いつか左ういふ影を宿したことがあるやうな氣がした。それが今ほとんど記憶といふほどのものでなく、ぼんやりと考へあてられた。
かれはあとさきを振りかへつて見たが、生きものらしい、自分に似たものが一疋も立つてゐなかつた。自分ひとりか知らとさへ思へた。大きな土手の枯草の茂みが、燃え上るやうな熱度を空からと、地の中からとに蒸し上つて、あたり一杯に漂うてゐたのである。
すぐ近くに途方もない大きな流れがあり、蒼蒼した川波の音がひびいてゐた。すくなくとも、其處からくる風は冷やりと、羽根のつけもとを痛いほど撫でさすつては過ぎて行つた。
そよ風がくるごとに、その煽れで少しづつの綟りを戻しては、風の上にそつと乘りうつらうとした。が、脚は反對にしつかりと枯草の莖にしがみついて、脚をはづすとおちさうで、それゆゑに風とともに立つことができなかつた。同じことを繰りかへしてゐるうち、かれは、一尺ばかり下の地面が、あれほど危なく感じてゐた先刻とくらべて、いまは目まひもしなければ落つこつても何でもないやうな氣がした。
自分の這ひ出てきた穴が、小さく貧しげに見えた。虻はきふにをかしい氣がして靜かにほほゑんで見た。
「立てるか。」
さういふ聲が再び枯草の間から優しげに囁いた。
「うむ。」
かれは、はじめて聲をあらはして何者かに答へてみせた。が、やはり四邊には何物をも見つけることができなかつた。茫々たる土手は長く茶褐色につらなつて、内部は、ほのぼのとした蒼みある色をうかべてゐた。
かれは、そのとき本氣にならないで、ただ羽根をうごかしてゐるに過ぎなかつたのであるが、ふしぎに、ふうはりとからだが、輕く浮くやうになつて、風の上に乘ることができた。そして五寸ばかりさきの、まだ枯れ穗のある草の頂に止まつた。そのとき初めて虻はすつかり廣がり切つた自分の羽根を樂しげに顧みたのである。
「立てるか。」
さういふ聲は三度かれのまはりから起つた。虻は知らず知らず又羽根をつツ立てた。黄金いろの尻がだんだん色濃くなつた。そしてかれは二尺ばかりの空中へ舞ひあがつた。すべては滑らかで温い空氣に充ちてゐて芳ばしい匂さへしてゐた。からだぢゆうが新しい別ないきいきしたちからと強さとで、一心に凝りあがつて舞ひ止まつてゐた。
かれは、その靜かな空中で自分の羽根の音が絶え間なくぶむぶむと鳴るのを快げに聞き入つた。彼はすぐ目の下にある土手の一部を目にいれると、自分のいま出てきた穴などは、もう考へなくなつてゐた。
虻は嬉しかつた。重いと思つた空氣はいまは柔かい羽根を抱きしめるやうに、あたりに深く限りしられずに充ち、わづかな風もつめたくはなかつた。かれは何處へゆかうといふ氣はなかつたが、何處へでもゆけるやうな氣がした。
「おれはだんだんに飛べるやうになつた。おれは何處へでも行ける。」
かれはさう思ふと一直線に翔つた。かれは眼に起伏する小さい丘や窪地やを快げに見おろした。それからそれらの青味が枯草を全きまでに覆ひつくさうとする日南へ出たり、王宮のやうな美しい樹の下に止つたりした。かれは四度「立てるか。」といふ聲を聞いたときは、もう羽根はつややかなセルロイドのやうな光を空中に自在に閃かしてゐた。
かれは、その立てるかといふ聲が、ずつとさきに頭のなかに殘つてゐることを次第に考へ出した。かれのさきの代にも、さういふ聲が起つてゐたやうに思へた。かれは、さう考へたとき青い川波も長い土手も、青みある草原も、美しい樹も、みないつか一度ながめたことがあるやうな氣がした。
ぶむぶむぶむ……虻はふりそそぐ光のなかを急いだ。あてもなかつたが、明るい日光のある方へ方へと、あたらしい羽根のつづくかぎり趁つて行つた。
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