永きわかれ

永井荷風

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原作 Lucie ― De Musset   われ亡き後我友どち願くは   一もとの柳を植ゑよおくつきに。   あはれ頼りなげなる姿、柳の木立。   淡き葉色のいとしさは   柔きかげやつくらむ   やがてこの身も眠るべきおくつきに。 われと乙女。その夜唯ふたりのみ。 ひしと寄添ひゐたりけり。 乙女は頭傾け白き指先運ばせて 深き思ひにくれつゝもクラブサン奏ではじめぬ。 されど其曲はさゞめきの声のごとく そよ風遠く蘆のしげみを渡りつゝ 塒の禽をさまさじと気づかふ如くしめやかなりき。 さびしくもふけ行く夜半のあたゝかき快感 花の蕋より湧き出でて二人の身をば囲みたり。 広き庭に茂りし橡と年ふりし槲の木立 露に濡れつゝしめやかに其葉をゆする。 乙女とわれとは心澄して夜の底に耳傾けぬ。 半ひらきし窓よりは酣なる春夜の薫 絶るまもなく漂ひ来れり。 風は沈みて響なく牧場は寂として静なり。 乙女とわれと唯二人物も得言はず寄添ひゐたり。 乙女とわれと其時年は十五なりけり。 われは乙女リユシイがおもてを見まもりぬ。 リユシイは色蒼白く其髪はブロンドなりき。 其のやさしき目容は青空の如く澄み 青空の如く神秘なりき。 恍惚としてわれは其美に打たれぬ。 この人よりも美しきものこの世にありや。 されど乙女の身より湧出る気高さに わが恋は妹を思ふ愛なりけり。 二人はしばらく黙然として言葉なし。 わが手はいつかその手に触れぬ。 われは夢みる如く憂はしくも又優しき その額をのみながめやりぬ。 われは始て人の世の苦しみを慰むるもの 形容と情緒のうら若さ。平和と幸福のうら若さ。 この二ツのみなるを思ひ知りぬ。 月は雲なき空にのぼりて 白金の長き光に乙女の面をひたしたり。 乙女はその面影わが眼の底にやどれるを知りしにや。 天使の如くほゝゑみて 歌の一ふしうたひ出しぬ。   ………………………   ……………………… あゝ憂愁の女性よ。 HARMONIE HARMONIE そも/\愛のために詩人のつくり出しゝ アルモニイといふこの言の葉。 そは知れざる空の彼方より起りて 伊太利亜の地に堕ち伊太利亜より移りて わが仏蘭西にまで響き来りし言葉なり。 心の秘密を包みしまゝにかよわき乙女の 唯それとしもなく打ちあけし 心と心に通ふ優しき無声のこの言の葉よ。 わが胸よりほとばしり出る呼吸づかひ 乙女の汚れなき吐息に打まじりて その悲しさはその心にひとしく そのやさしさはその響に同じく 悩める身にのみ唯あきらかに聞え あきらかに通ずる無言の声。 よしやこぼるゝ涙人の目に触るゝとも 深き心は森の秘密、夜の秘密。 海の秘密の如く人には知られじ。 二人は深き思に沈みて寄添ひゐたり。 われは乙女が面を見まもりぬ。 奏づるロマンスの一ふし。そのひゞきは 二人が身中に進み入りて呼びつ応へつするが如し。 乙女は重たげに其顔をわが身の上に寄掛けたり。 さながらに曲中の「戦くデスデモナ」となりし 心地やしたりけん。乙女は泣きぬ。 あはれ乙女は悲しげにわが接吻を許しけり。 わがなすまゝにわが接吻をゆるしゝは そが悲しみのためなりき。 われは程もあらせず冷かに青ざめし 乙女を抱く身となりぬ。 二月過ぎて乙女は墳墓に運ばれぬ。 かくして汚れなき我愛の花は萎れしなり。 その死は微笑に似たりし其生の やさしきが如くやさしかりけり。 乙女のむくろは幼きまゝのこゝろにて 神の御手に返されしなりけり。 けがれなき人の住みたりし その家の神秘なるやさしさよ。 歌と、愛の夢と、よろこびと また無邪気なる物がたり。 マルグリツトが家の門口に フオーストも入りかねてためらひし 罪なく打明けし心の愛らしさ。 わかき日のけがれなき心のなつかしさ。 あはれ乙女よ。その胸にその思出に ふかき平和の宿れかし。さらば。 さらば。夏の夜に細き指先運ばせて かなでし象牙のクラブサン。 その調今はとこしなへに消えて失せたり。   われ亡き後わが友どち願くは   一もとの柳を植ゑよおくつきに   あはれ頼りなげなる姿、柳の木立。   淡き葉色のいとしさは   柔きかげやつくらむ   やがてこの身も眠るべきおくつきに。 〔一九四六(昭和二一)年九月五日、筑摩書房『来訪者』〕

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