薊の花のすきな子に

立原道造

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Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に―― 風は 或るとき流れて行つた 絵のやうな うすい緑のなかを、 ひとつのたつたひとつの人の言葉を はこんで行くと 人は誰でもうけとつた ありがたうと ほほゑみながら。 開きかけた花のあひだに 色をかへない青い空に 鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、 気づかはしげな恥らひが、 そのまはりを かろい翼で にほひながら 羽ばたいてゐた…… 何もかも あやまちはなかつた みな 猟人も盗人もゐなかつた ひろい風と光の万物の世界であつた。 Ⅱ 虹の輪 あたたかい香りがみちて 空から 花を播き散らす少女の天使の掌が 雲のやうにやはらかに 覗いてゐた おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた 夜が来ても 小鳥がうたひ 朝が来れば 叢に露の雫が光つて見えた――真珠や 滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは やさしい樹木のやうに腕をからませ をののいてゐた 吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く 朝のしめつたその風の……さうして 一日が明けて行つた 暮れて行つた おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに もつと遠くの深い空や昼でも見える星のちらつきが こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた Ⅲ 窓下楽 昨夜は 夜更けて 歩いて 町をさまよつたが ひとつの窓はとぢられて あかりは僕からとほかつた いいや! あかりは僕のそばにゐた ひとつの窓はとぢられて かすかな寝息が眠つてゐた とほい やさしい唄のやう! こつそりまねてその唄を僕はうたつた それはたいへんまづかつた 昔の こはれた笛のやう! 僕はあわてて逃げて行つた あれはたしかにわるかつた あかりは消えた どこへやら? Ⅳ 薄明 音楽がよくきこえる だれも聞いてゐないのに ちひさきフーガが 花のあひだを 草の葉のあひだを 染めてながれる 窓をひらいて 窓にもたれればいい 土の上に影があるのを 眺めればいい ああ 何もかも美しい! 私の身体の 外に 私を囲んで暖く香よくにほふひと 私は ささやく おまへにまた一度 ――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! やまない音楽のなかなのに 小鳥も果実も高い空で眠りに就き 影は長く 消えてしまふ――そして 別れる Ⅴ 民謡 ――エリザのために 絃は張られてゐるが もう 誰もがそれから調べを引き出さない 指を触れると 老いたかなしみが しづかに帰つて来た……小さな歌の器 或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に 人はときをりこれを手にとりあげる 弓が誘ふかろい響――それは奏でた (おお ながいとほいながれるとき) ――昔むかし野ばらが咲いてゐた 野鳩が啼いてゐた……あの頃…… さうしてその歌が人の心にやすむと 時あつて やさしい調べが眼をさます 指を組みあはす 古びた唄のなかに ――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

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