灰色の壁
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灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
臘月の十九日、
丑満の夜の館。
龕めく唐銅の櫃の上、
燭青うまじろがずひとつ照る。
時にわれ、朦朧と黒衣して
天鵝絨のもの鈍き床に立ち、
ひたと身は鉄の屑
磁石にか吸はれよる。
足はいま釘つけに痺れ、かの
黄泉の扉はまのあたり額を圧す。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
暗澹と燐の火し
奈落へか虚する。
表面ただ古地図に似て煤け、
縦横にかず知れず走る罅
青やかに火光吸ひ、じめじめと
陰湿の汗うるみ冷ゆる時、
鉄の気はうしろより
さかしまに髪を梳く。
はと竦む節々の凍る音。
生きたるは黒漆の瞳のみ。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
熟視む、いま、あるかなき
一点の血の雫。
朱の鈍み星のごと潤味帯び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷うつ心の臓
刻々にあきらかに熱り来れ。
血けぶり。刹那ほと
かすかなる人の息。
みるがまに罅はみなつやつやと
金髪の千筋なし、さと乱る。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
なほ熟視む。……髣髴と
浮びいづ、女の頬
大理石のごと腐れ、仰向くや
鼻冷えてほの笑ふちひさき歯
しらしらと薄玻璃の音を立つる。
眼をひらく。絶望のくるしみに
手はかたく十字拱み、
みだらなる媚の色
きとばかり。燭の火の青み射し、
銀色の夜の絹衣ひるがへる。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
『彼。』とわが憎悪心
むらむらとうちふるふ。
一斉に冷血のわななきは
釘つけの身を逆にゑぐり刺す。
ぎくと手は音刻み、節ごとに
機械のごと動く。いま怪し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴と鏝。
つと取るや、ひとつ当て、左より
額をまづひしひしと塗りつぶす。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
朱のごとき怨念は
燃え、われを凍らしむ。
刹那、かの驕りたる眼鼻ども
胸かけて、生ぬるき埴の色
ひと息に鏝の手に葬られ
生きながら苦しむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅、
今、暗き他界より
凄きまで面変り、人と世を
呪ふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
悪業の終りたる
時に、ふとわれの手は
物握るかたちして見出さる。
ながむれば埴あらず、鏝もなし。
ただ暗き壁の面冷々と、
うは湿り、一点の血ぞ光る。
前の世の恋か、なほ
骨髄に沁みわたる
この怨恨、この呪咀、まざまざと
人ひとり幻影に殺したる。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
臘月の十九日、
丑満の夜の館。
龕めく唐銅の櫃の上
燭青うまじろがずひとつ照る。
時になほ、朦朧と黒衣して
天鵝絨のものにぶき床に立ち、
わなわなと壁熟視め、
ひとり、また戦慄す。
掌ひらけば汗はあな生なまと
さながらに人間の血のにほひ。
三十九年十二月
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