北原白秋

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時は冬、霜月下旬、 夜の一時、真闇の海路。 玄海か、朝鮮沖か、 知らず。ただ波涛の響 鞺鞳と窻うつ暗さ。 門司いでて既に幾時。 いとど蒸す夜来の空は、 雨交り雹さへ乱れ、 灘遠く雷するけはひ。 不安いま、黒き旗して 死の海を船ゆく恐怖、 深沈の極み真黒に 点鍾の悲音たまたま、 天候の険悪いよよ、 闇憺とわが夜はくだつ。 一室に見知る顔なし。 何ごとぞ、宵のほどより、 紅毛の羅面絃弾者は 白眼むき絶えず笑へり。 陰翳は彼が肋に 明暗す一張一弛、 カンテラの青み吸ひつつ、 縞蛇の喘ぐが如し。 深夜なり。疫病顔に、 衆人は疲れ黄ばみて 銭ひとつ投ぐる者なし。 乱撃よ、早鐘急に、 甲板は靴音高く、 『驚破。』『風ぞ』『誰そ巻け』『倒せ。』 『綱投げよ。』一時に水夫ら 狼狽の銅羅声擾し、 『飛沫』『それ辷るな』『立て。』と 口口に、巻き、投げ、昇り、 立ち騒ぐ刹那か、颯と 暴風の襲来迅く、 帆の半、帆ばしら、帆桁、 折れ、唸り、はためき、倒れ、 動揺す、奈落へ、天へ、 激瀾の鳴号凄く 轟轟と頭上に下に、 刻刻の不穏等しく 一室は歯の根もあはず、 惨たりな、垂死の境。 紅毛は笑ひつつあり。 ふと見れば何らの贄ぞ、 わが膝は眩ゆきばかり 乱髪の女人に温み、 華奢ながら清き容顔 夢みるか、青うゑまひぬ。 恋びとか、あはれ、抱けば 軽軟の吐息すずろに 頬触れぬ、薔薇のにほひ。 嗚呼暫時流離の胸も 脈絡の炎に爛れ、 痛楚なる人が呻吟も、 念仏も悲鳴も知らず、 情界の熱き愉楽に、 わが霊は喘ぎ焦がれぬ。 何ごとぞ、一時に音し、 毱のごと五体は飛べり。 瞬く間、危急の汽笛 一斉の叫喚――うつつ、 秒ならず、後甲板は 懸命の格闘黒く、 『咄、放せ』短艇に魔あり、 櫂あげて逃路を塞ぐ。 目前の障碍――知らず 紅毛か、水夫か、女か、 他人なり――死ねやとばかり、 発止、余は短銃高く 一発す、続いて二発、 三発す。あはや横波 驀地頭上を天へ、 舳なかば傾く刹那、 しやしやしやしやと水晶簾ぞ 落下すれ、苦鳴もろとも 闇中の渦巻分時、 微塵なり。――水天裂けて 髣髴と白光走る。 眼ひらけば、小春のごとも 麗らかに空晴れわたり、 身辺は雑木踈らに、 名も知らぬ紅花叢咲き 涼風の朝吹く汀、 砂雲雀優にあがれり。 ああ、神よ、他人は知らじ、 我はわが生命の真珠 全きを今もながめて、 満腔の歓喜高く 大音に感謝しまつる。

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