けれども情緒は
本文の表示
けれども情緒は春のやうだ
一人の老人がかう呟いた
燒け野つ原の砌の上で
孤獨な膝をだいてゐる一つの運命がさう呟いた
妻もなく家庭もなく隣人もなく
名譽も希望も職業も 歸るべき故郷もなく
貧しい襤褸につつまれて 語られ終つたわびしい一つの物語り
谿間をへだてた向ふから呼びかへしてくる谺のやうな 老人がさう呟いた
かひがひしい妻 やさしい家族 暮しなれた習慣と隣人と
そのささやかな幸福のすべてがかつてそこにあつた
燒け野つ原の砌の上で
薄暮の雨に消えてゆく直線圖形の堀割のむかふの方
みづがね色の遠景に畸型に歪んでおびえてゐる戰災ビルの肩を越えて
病氣の貧しい子供らが歌ひはじめる唱歌のこゑ――
それはまばらにさむざむと またたのしげに 瞬きはじめた都會の灯
ああその薔薇いろの瞳とほく輝きはじめた眼くばせが
しかしいま私に何のかかはりがあらう
そのまたずつとむかふの空に重たく暗く沈んでゆく山脈に
けふの私の一日が遮ぎり斷たれ つひには虚無にしまひこまれて消えてゆく黄昏時に
いつまでもいつまでも
空しく風にゆれてゐる柳のかげをたち去らぬこのおだやかな このつかれた この孤獨な情緒は 情緒はまるで春のやうだ……
一人の老人が額をふせてさう呟いた
けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ
しのしのとのび放題に生ひ繁つた草つ原
――その枯れ枯れにうら枯れはてたそこらあたりに
おもたく澱んだ堀割の水がくされてゐる
そこいらいちめん崩れかかつた煉瓦塀の間から 雀の群れが飛びたつた
氣まぐれな思出のやうに 一つ一つ弱い翼を羽ばたいて
巷の小鳥も飛び去つてゆく夕暮れだ
霧のやうに降つてくるしめつぽい冬の雨の中で
けれども情緒は 情緒はいまこの男に
朧ろにかすんだ遠い日の櫻日和を思はせた
遠い沙漠の砂の上でひもじく飢ゑて死んでゆく蝗のやうな感情に
とぼしい光の落ちかかるうすぼんやりした内景から聽き手もなく老人はひとり呟いた
けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ
ログインすると、お気に入り登録や選集への追加ができます。
ログインすると、この作品に自分だけに見えるメモを残せます。
けれども情緒はの談話
疑問や連想、ちょっとした読み方などを気軽に話せます。
まだ投稿はありません。
けれども情緒はに寄せられた作品
詩から生まれた翻案・イラストや、朗読・解説などの関連リンクを持ち寄れます。
まだ投稿はありません。
批評・感想 0
作品の表現や構成を検討し、根拠を示しながら評価・講評する場所です。
まだ批評・講評はありません。
ログインすると批評・講評を書けます。