春情は醗酵する

小熊秀雄

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一 真夜中の慾情は星のやうに青く輝き さんらんと其処此処のくさむらで 露のやうに光りかがやいてゐた しかしこの慾情も 冬の風景のなかにしづんでしまふと ひからびた粘土のやうに かさかさと風にとんでしまふ かつては重たくやさしくもつれあつた 春情のおもかげも こゝに寂しくやるせない悶々の思ひに はるかにちりぢりにちつてしまつた そのかけらはつめたい氷のやうで いまさら拾ひあつめるすべもない ふしあはせな北国の人々は けふも真冬の風物に白くさらされて 血温は凍つた外界の大気とひとしくなつて 青春もむなしくふるへをののいてゐた 二 或る日 男はすとをぶにあまりちかくよつて 腰をあたためすぎたので 病的にもあやしく手足をふり はげしくはげしく手足をふり 膝頭をうちつけたり 両手ではげしくさすつたり 真昼の光線を浴びた蠅がよくするやうな 奇怪なまねをはじめだした 感情はますます激しく燃焼し粘着し あやしい運動はますますはげしくなつてきた 男はなかば瞳をつむつたかたちで 霧のやうな空気のなかを 魚のやうにさかんにおよぎ廻つた そしてひさしく凍結した氷海に 青い春情の波をみた 軽ろやかにあらだちさわぐ青い水をみた 三 男はさめざめと笑ひはにかんだ とほく秋のをはりの期節のころに 街の児供らがつめたい大地に坐つて ひとつ ふたつ みつ よつと 雹を帽子に数へひろつたころから しだいにとぢこめられた濃霧の期節 男らの憂鬱な白塗の病院船は 赤きあかしをますとにうちふり 汽笛はぼうぼうと長くなやましく ああ 標識を失ひさまよふかなしき航海船 四 男はしみじみとおのが青春を掌にとり 春のやはらかな日光に照らしてみた うれしくなやましい思ひに胸はいつぱいで おのづと涙は泉のやうにわいてきた ちやうど男は遠洋航海船の船員のやうに 港の赤い燈火をながめてはしやぎまはり 銅鼓を鳴らし 銅鼓を鳴らし 投錨の銅鼓にはげしく春情を唆られて 風のやうにすばやく軽装し 慾情の新らしいバスケットを提げて あらそつて上陸した 五 男は両手をだらりとさげて歩るきだした 爬虫類のやうな恰好で歩るきだした ざらざらと蜥蜴のやうに足をひきずつて そこらあたりいちめんの 青草に燃える野原をはひ廻つた 広野は春のまつさかり 人々は大地よりたちのぼる幽気を吸つて みなしなやかに散歩してゐた 六 女はあまり素足で青草を踏みさまよつた あやしき外触覚の慾情に 歩みつかれたかよわき呼吸の あやしき内触覚の慾情に 女はばたりと土に音たてゝ そこの叢のふかさに坐つてしまつた 七 ああすべて地上を歩むものは爬虫類である 蜥蜴、蛇、鰐、亀の類人間の類 みなつれだちて寂しくさまよひさまよふ 旅人はみな爬虫類である 女はいまなつかしい爬虫の感情がよみがへり 黄色な粘土の匂ひになやましく上気して 白いしなやかな指をふるはせながら 狂人のやうになつてタンポポの花をむしつてゐた 八 男は蛇のやうに ひつそりとはひよつて かろくやさしく女の肩をたたいてみた 女は電気のやうに猫のやうに ぱちぱちと火花をちらして男からとびのいた 春のきせつのはるばるとめぐりきた 喜びも忘れたかのやうに 秋のやうに青く澄んだ 寒色の瞳をしてしまつた 九 男は女の瞳を 桃色の暖色にかはらすために どんなに苦心をしたか 男はちからいつぱいの笑を女におくり つぎにはしだいに重たく重たく 胸のあたりを圧し 女の呼吸とぴつたりとりずむをあはせ はては呼吸をだんだんとせはしくはげしく くるしく はげしく くるしく 上手に熱心にくりかへしてゐると いつの間にか 女の瞳は燃えるやうな暖色にかへつて およぐやうな手つきで そのへんの草をむちうでむしつてゐた 十 二人のならんでゐる叢は 誰のめにもつかない谷底のやうなふかさで やがてこの谷間に火のやうな霧が降り 草も木も花も みなこんもりと暖気にとぢこめられ ぴつたりと蛇のやうにもつれあつた ふたりのからだは醗酵してしまつた。

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