春の夜(『自分は見た』収録・同題第1篇)
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春のやうな夜だ。
もの柔かな
自分の好きな春の夜だ。
自分は今夜も遲くまで眠ら無いで居る。
こんな晩には自分は眠られ無い者も不幸とは思はない。
他人の幸福も自分には羨やましく響かない
自分は空想をほしいまゝに刺撃して
小供の樣に勝手氣儘に遊んで居る。
時間はたつぷりと有り餘つて居る。
空想も有り餘つて居る。
妻子は一緒に書齋の隅に眠つて居る
健康に溢れて居る二人は
暖いので蒲團をはいで
不調ひな鼾をかいて居る。
只時々小供が咳をするのが氣になる限り
自分はこの靜かな春の夜を
誰にも邪魔をされずに
小供が眠るのを厭がる樣に
用も無いのに眠るのが惜しくて起きて居るのだ。
こんな時、
母が居たらば
きつと、「もう御休みなさい」と心配するに違ひ無い。
その癖後では人に向つて
「勉強家ですよ」と話して居る
あゝ春の夜だ。
四五年前の、十年も前のあの春の夜と同じ春の夜だ。
こんな晩には
幼稚な古臭い情緒にすら
自分の心は素直に動かされてわけも無く感激する涙すら浮んで來る。
じつと耳を澄すと
戸外ではそれでも少しづゝ動搖がある。
遠くでは犬が吠えて居る。
工場か何かの濕つぽい汽笛が
ふくろのやうに一つ二つ呼び交し
機關車が蒸氣を吐き
風がザワ/\と空地で起り
然しすぐあと方もなく皆んな消えてしまふ。
矢張り靜かな春の夜だ。
時間はたつぷりあり餘つて居る。
自分はプシキンの「大尉の娘」を讀んで居る。
花やかでどこか氣味が惡い
豐富な興味と教訓に滿ちた
この變つた小説に先刻から夢中だ。
感嘆する
實に感嘆する
流石にプシキンだ。
簡潔な言葉の中に
無限の人情の世界を現出させ
少しもあせらずに單調に落着いて
然し不思議な波瀾を生んでゆく
數奇な運命を卷き起す筆の魔力には感嘆する
日本人の書いたものはこんなものに比べると實に貧しい、
色彩が薄い、
事件に都合のいゝところはあつても人情が豐かだ、リズムがある。
こんなものが書けたらば氣持がいゝだらうな
想像が刺撃されて心は苦るしくなる。
然し側から小供が咳をする
その方へ注意が集る
小供はピチヨ/\と舌を鳴らし鼻を鳴らす。
泣くかと思つて待つてゐるが眼は覺さない。
思はず「いけないね、咳をして」と云ふと
果して妻は今眼がさめたところ
同じ返事をして又眠り込む
自分は溜息をついて又本を讀みつゞける。
自分の母がかうだつた。
俺の事心配したが、この俺に感化されたのか
家中が寢鎭つてから
小供の襤褸布を取り出しても
仕事は明日の晩にして本をよむ事にする
どうかすると曉方まで
もう此頃はあの癖は止まつたらしい
然しあの頃の事は矢張り思ひ出すだらうな
あの頃は自分にも一番よかつた
善惡の觀念が單純にはつきりして居て
今程思想は混亂しないで
心の儘に振舞つて、少しの悔いも殘す事がなかつた。
又小供が咳をする。
が大した事はあるまい
明日もこの分なら暖いいゝ天氣に違ひない
一日、陽に當つたら癒るだらう。
未だ眠るのは惜しい
もう一章先きを讀むか。
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