父なきのち
本文の表示
父をうしなつてから
私はやはり郊外にところを定めて
そこに寂しい日をくらしてゐた
聖フランチエスコの伝記や
カラマゾフ兄弟の中の
長老ゾシマの悲しげな臨終を読んだりして
深い物思ひに沈んで
いまさらのやうに
蒼褪めた秋の木木の立つ姿を眺めたりした
じめじめふる雨は
僕の心を全きまで沈ませ
厳しい精進の心を覆うてゐた
晩は高台の会堂の深い木立から
お祈りの人人をあつめる鐘が鳴つて
僕はいつものやうに出て行つた
父をうしなつてからといふものは
僕はかの会堂の中に座つて
ぼんやりした想念に抱かれながら
身も心も平安に委ねることを好んだ
そこにある静かな人人の祈りは
たとへその形式がどうあらうと
真摯な祈りの中に
たえず動いてくるものがあつた
それらは僕を静かに慰さめてくれた
僕は父のことを祈り
あとにのこつた淋しい母のことを祈り
ああ自分はいつ父のそばへ行けるのだらう
いつ父の胸にすがつて
父上私も参りましたと云ふ
此世の一切を終るべき時を得るのであらう
自分はその日まで楽しみ
又 生き永らへるのだ
その上で私は父の温顔を再た見るのであらう
かう思ひながら
永い間祈りかつ咽ぶのであつた
夜は澄んで透つて星は輝いてゐた
白い額と蒼い目を持つた
美しい西洋婦人の祈りは長い間続いた
全ての女性の祈りが美しく
殆んど聴きとれないほど敬虔に
又低い祈りであるが如く
彼女の声もひくく殆んど啜泣くやうであつた
「主よこの一切の汚れの中にある私共に
あなたの清さとめぐみと愛と
そして又あらゆる人人の上にも
私共にくださるみ心を注いで下さるやう」
その祈りは万人の上にもあつた
その美しい日本語は
会堂の中に充ちあふれる愛を囁いてゐた
ここに集まつた人人らは
すこしの邪念のない
美しい瞬間の光をあびながら
楽しげに一切に祈り上げるのであつた
自分はからだを締めつけられたやうな
身動きのできない静かな緊張された空気を感じながら
ありありと父の顔を描き出した
僕は自分の中にあるだけの力を出して
その力をもつて
温かな父の呼吸を感じることが出来た
私はうれしく掻き上りたい気がした
私は間もなく心で囁いた
「主よ あなたの力をいま私に注ぎ込み
私の祈りをあなたにささげた瞬間
私の愛してゐるところを示して下さるやう
此全世界の高い鼓動の中から
私の優しい人の その愛あるところの
ほとばしる美しい目をお示し下さるやう
ああ 一切が平安の中に進みますやう」
私はかう祈り沈んで
病熱を帯びたやうに
会堂を圧する昂奮をかんじた
この瞬間全世界もよくなれといふ
つきることのない願望に震へ上つたのだ
あせははだみを流れた
そして私はうつむいて
力一杯聖書に接吻した
とどめがたい涙は偉大を感じながら
つきることなく僕の立つところを湿した。
ログインすると、お気に入り登録や選集への追加ができます。
ログインすると、この作品に自分だけに見えるメモを残せます。
父なきのちの談話
疑問や連想、ちょっとした読み方などを気軽に話せます。
まだ投稿はありません。
父なきのちに寄せられた作品
詩から生まれた翻案・イラストや、朗読・解説などの関連リンクを持ち寄れます。
まだ投稿はありません。
批評・感想 0
作品から読み取ったことや、自分の中に生まれた感覚をまとまった文章で残す場所です。
まだ解釈・感想はありません。
ログインすると解釈・感想を書けます。