暗殺酒鋪

与謝野晶子

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閾を内へ跨ぐとき、 墓窟の口を踏むやうな 暗い怖えが身に迫る。 煙草のけぶり、人いきれ、 酒類の匂ひ、灯の明り、 黒と桃色、黄と青と…… あれ、はたはたと手の音が きもの姿に帽を著た わたしを迎へて爆ぜ裂ける。 鬼のむれかと想はれる 人の塊、そこ、かしこ。 もやもや曇る狭い室。     × 淡い眩暈のするままに 君が腕を軽く取り、 物珍らしくさし覗く 知らぬ人等に会釈して、 扇で半ば頬を隠し、 わたしは其処に掛けてゐた。 ボウドレエルに似た像が 荒い苦悶を食ひしばり、 手を後ろ手に縛られて 煤びた壁に吊された、 その足もとの横長い 粗木づくりの腰掛に。 「この酒鋪の名物は、 四百年へた古家の きたないことと、剽軽な また正直なあの老爺、 それにお客は漫画家と 若い詩人に限ること。」 こんな話を友はする。     × 濶い股衣の大股に 老爺は寄つて、三人の 日本の客の手を取つた。 伸びるがままに乱れたる 髪も頬髭も灰白み、 赤い上被、青い服、 それも汚れて裂けたまま。 太い目元に皺の寄る 屈托のない笑顔して、 盛高の頬と鼻先の 林檎色した美くしさ。 老爺の手から、前の卓、 わたしの小さい杯に 注がれた酒はムウドンの 丘の上から初秋の セエヌの水を見るやうな 濃い紫を湛へてる。     × 「聴け、我が子等」と客達を 叱るやうなる叫びごゑ。 老爺はやをら中央の 麦稈椅子に掛けながら、 マンドリンをば膝にして、 「皆さん、今夜は珍しい 日本の詩人をもてなして、 ヹルレエヌをば歌ひましよ。」 老爺の声の止まぬ間に 拍手の音が降りかかる。 赤い毛をした、痩形の、 モデル女も泳ぐよに 一人の画家の膝を下り、 口笛を吹く、手を挙げる。

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