顔の印象六篇
連作6篇の小詩篇からなります。各篇は独立した作品ページを持ちます。
詩集『邪宗門』所収。原文はA〜Fの符号で6篇を並べる。
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1 精舎
うち沈む広額、夜のごとも凹める眼――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊の精舎。
それか、実に声もなき秦皮の森のひまより
熟視むるは暗き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日さし、きしりこきり斑鳩なげく
寂寥や、空の色なほ紅ににほひのこれど、
静かなる、はた孤独、山間の霧にうもれて
悔と夜のなげかひを懇に通夜し見まもる。
かかる間も、底ふかく青の魚盲ひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹水の面に血音たてつつ、
みな冷やき石の世と化りぞゆく、あな恐怖より。
かくてなほ声もなき秦皮よ、秘に火ともり、
精舎また水晶と凝る時愁やぶれて
響きいづ、響きいづ、最終の霊の梵鐘。
以下五篇――四十一年三月
2 狂へる街
赭らめる暗き鼻、なめらかに禿げたる額、
痙攣れる唇の端、光なくなやめる眼
なにか見る、夕栄のひとみぎり噎ぶ落日に、
熱病の響する煉瓦家か、狂へる街か。
見るがまに焼酎の泡しぶきひたぶる歎く
そが街よ、立てつづく尖屋根血ばみ疲れて
雲赤くもだゆる日、悩ましく馬車駆るやから
霊のありかをぞうち惑ひ窓ふりあふぐ。
その窓に盲ひたる爺ひとり鈍き刃研げる。
はた、唖朱に笑ひ痺れつつ女を説ける。
次なるは聾しぬる清き尼三味線弾ける。
しかはあれ、照り狂ふ街はまた酒と歌とに
しどろなる舞の列あかあかと淫れくるめき、
馬車のあと見もやらず、意味もなく歌ひ倒るる。
3 醋の甕
蒼ざめし汝が面饐えよどむ瞳のにごり、
薄暮に熟視めつつ撓みちる髪の香きけば――
醋の甕のふたならび人もなき室に沈みて、
ほの暗き玻璃の窓ひややかに愁ひわななく。
外面なる嗟嘆よ、波もなきいんくの河に
旗青き独木舟そこはかと巡り漕ぎたみ、
見えわかぬ悩より錨曳き鎖巻かれて、
伽羅まじり消え失する黒蒸汽笛ぞ呻ける。
吊橋の灰白よ、疲れたる煉瓦の壁よ、
たまたまに整はぬ夜のピアノ淫れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面をただに熟視むる。
はた、甕のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外かぎりなき懸隔に帷堕つれば、
あな悲し、あな暗し、醋の沈黙長くひびかふ。
4 沈丁花
なまめけるわが女、汝は弾きぬ夏の日の曲、
悩ましき眼の色に、髪際の紛おしろひに、
緘みたる色あかき唇に、あるはいやしく
肉の香に倦める猥らなる頬のほほゑみに。
響かふは呪はしき執と欲、ゆめもふくらに
頸巻く毛のぬくみ、真白なるほだしの環
そがうへに我ぞ聴く、沈丁花たぎる畑を、
堪へがたき夏の日を、狂はしき甘きひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが畑に隣る河岸側、
色ざめし浅葱幕しどけなく張りもつらねて、
調ぶるは下司のうた、はしやげる曲馬の囃子。
その幕の羅馬字よ、くるしげに馬は嘶き、
大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば
生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる。
5 不調子
われは見る汝が不調、――萎びたる瞳の光沢に、
衰の頬ににほふおしろひの厚き化粧に、
あはれまた褪せはてし髪の髷強きくゆりに、
肉の戦慄を、いや甘き欲の疲労を。
はた思ふ、晩夏の生あつきにほひのなかに、
倦みしごと縺れ入るいと冷やき風の吐息を。
新開の街は鏽びて、色赤く猥るる屋根を、
濁りたる看板を、入り残る窓の落日を。
なべてみな整はぬ色の曲……ただに鋭き
最高音の入り雑り、埃たつ家なみのうへに、
色にぶき土蔵家の江戸芝居ひとり古りたる。
露はなる日の光、そがもとに三味はなまめき、
拍子木の歎またいと痛し古き痍に、
かくてあな衰のもののいろ空は暮れ初む。
6 赤き恐怖
わかうどよ、汝はくるし、尋めあぐむ苦悶の瞳、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇
みな恋の響なり、熟視むれば――調かなでて
火のごとき馬ぐるま燃え過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の真昼どき、白楊にほひわななき、
雲浮かぶ空の色生あつく蒸しも汗ばむ
街よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上の光また眼にうつり、壁ぞ狂へる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を滴らし
胆抜きて走る鬼、そがあとにただに餞ゑつつ
色赤き郵便函のみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の内すずしげに室は濡るれど、
戸外にぞ火は熾る、………哀れ、哀れ、棚の上に見よ、
水もなき消火器のうつろなる赤き戦慄。
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